八戸の英知

青森県東部の中心都市である八戸市は、日本を代表する八戸漁港を有し、県内最大規模の工業港、国際貿易港である八戸港を誇る。「こうした八戸市の社会基盤を整え、この地域の文化形成に大きな役割を果たしたのは八戸藩」だと指摘する、八戸歴史研究会会長の三浦忠司氏。江戸初期に誕生した八戸藩は、あまり歴史の表舞台では存在感がない。だが、江戸時代中期には「江戸近くござ候」と言われるまでの華やかな城下町であった。八戸藩の中でどんな変遷があったのか、そして藩政時代から変わらぬ“八戸らしさ”をたずねた。

Photo Satoru Seki  Text Nile’s NILE

青森県東部の中心都市である八戸市は、日本を代表する八戸漁港を有し、県内最大規模の工業港、国際貿易港である八戸港を誇る。「こうした八戸市の社会基盤を整え、この地域の文化形成に大きな役割を果たしたのは八戸藩」だと指摘する、八戸歴史研究会会長の三浦忠司氏。江戸初期に誕生した八戸藩は、あまり歴史の表舞台では存在感がない。だが、江戸時代中期には「江戸近くござ候」と言われるまでの華やかな城下町であった。八戸藩の中でどんな変遷があったのか、そして藩政時代から変わらぬ“八戸らしさ”をたずねた。

八戸藩初代藩主の南部直房が父・利直(としなお)の菩提をとむらうために、1666(寛文6)年に建立した南宗寺。類家(るいけ)に建てたが、そこが湿潤な場所であったため、1671(寛文11)年に現在地に移築した。

「八戸は東廻り船にて度々江戸へ参り申候あいだ、たばこ・茶など江戸より持ち参り、我らが弟子都々一坊扇歌が作りたるどどいつ『とっちりとん』などの本これあり。盛岡よりもかえって江戸近くござ候」これは1842(天保13)年に、江戸からここ八戸に初めて興行に来た落語家の船遊亭扇橋が、旅日記『奥のしをり』に記した一文だ。盛岡より江戸から遠いはずの八戸だが、天保の時代、海運によって豊かな消費生活が花開いていたことが、よくわかるものだ。

荘厳なたたずまいの南宗寺の山門。1739(元文4)年に建立された。四脚門の切妻屋根や、良質の太い材木を用いた山門は、そこはかとない力強さを感じさせる。

八戸藩の誕生

「八戸の中心部は、東西に長細く台地で続いています。江戸時代はこの台地の突端に城を築き、その南に城下町が形成されていました。そして現在も、この頃のままの町割りが残されており、町名もそのままなのです。さらに各町の果たす役割もほとんど変わっていない、これが他の城下町と違う一番の特徴だと思います。例えば、権力の中枢である八戸城(内丸)には市役所が立ち、商業の中心地だった三日町や十三日町、廿三日町には地元の百貨店や飲食店などがある、一番の繁華街です。もう一つ、城下町と港(海)が近いことが大きな特徴として挙げられます」

と話す八戸歴史研究会会長の三浦忠司氏。つまり、江戸時代の城下町と港をそのまま建て替えて、使っているというわけだ。そのため、古い町並みなどはほとんど残っていないのが残念ではある。それでは、三浦氏の著書『八戸藩の歴史をたずねて』をもとに、現在の八戸の礎となった藩の誕生から振り返ってみる。

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    かつての大坂の商人が寄進した古い石灯籠がある神明宮。
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    南宗寺には南部家の歴代藩主の墓碑が並んでいる。
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    南宗寺山門は、青森県の県重宝建造物に指定された。
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    小高い森に鎮座する長者山新羅神社の本殿は1827(文政10)年のもの。
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    海上安全を祈って江戸の商人が奉納した長者山新羅神社の狛犬。
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    長者山新羅神社は1678(延宝6)年に2代藩主・直政が建立。
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八戸藩2万石が盛岡藩から分離独立して誕生したのは1664(寛文4)年のこと。そもそも、盛岡藩2代藩主であった南部重直が世継ぎを決めぬまま死去したため、「遺領10万石を、重直の異母弟である南部重信に8万石(盛岡藩)、南部直房に2万石(八戸藩)で分割統治せよ」と幕府の台命(将軍の命令)が下った。

これまでは、世継ぎがいない大名に対して「お家取りつぶし」を命じてきた幕府が、徳川4代将軍・家綱の頃になると、「分割統治」を推進するようになっていた。こうした時代の流れもあって、誕生したのが八戸藩だ。八戸藩の伝承を記録した『附録伝』によると、立藩する37年前、1627(寛永4)年に盛岡藩の初代藩主・南部利直の手によって、八戸城の建築と町づくりが行われていたという。

そもそも八戸地方を約300年にわたって統治していたのは、根城に城を構えた根城南部氏であった。盛岡藩は伊達氏に対する備えを理由に、1627年に根城南部氏を遠野(岩手県遠野市)へ移封。実はこの配置換えは、盛岡藩自らが八戸を治めたかったため、根城南部氏を追っ払ったようだ。

江戸時代から蕪島の西の海域が鮫湊と呼ばれていた。江戸からの千石船が入港していかりを下ろし、藩
領で産出した大豆などを載せたはしけ船がこの辺りで待ち受けていたという。

その証しに、その後八戸は盛岡藩主が町を縄張りし、初代藩主・利直は海に面したこの地を交易の拠点にしようと、城都の建設に着手した。そのため、八戸藩が成立する4年も前に、城と堀を備えた、現在と同じ町割りの城下町が出来上がっていたのである。

八戸藩初代藩主・直房は就任後わずか4年で亡くなり、8歳の直政が幼くして2代目を継いだ。27歳で5代将軍・徳川綱吉の側用人を務めるなどして、独立したばかりの外様大名ながら、広い人脈を築いた。3代通信から4代広信の時代には、諸制度を整備し藩政を確立。6代信依、7代信房の頃には、飢饉や一揆、大きな災害などが度重なり、財政が逼迫した。これに対し8代信真、9代信順の代に藩政改革を推し進めた。こうして八戸藩は、南部家が239年間藩主を務めたのである。

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    蕪嶋神社は1296(永仁4)年に厳島神社を勧進したのが始まりだと伝わる。「蕪嶋の弁天様」として信仰を集めてきた。弁財天は商売繁盛のほか、漁業の守り神でもある。本殿は昨年秋に全焼し今はない。
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    新井田川河口の高台に位置する館鼻(たてはな)公園からの眺め。昔から高台であったこの場所から、川や海、八戸の町を見渡せたため、“日和山”として利用されていた。現在はグレットタワーみなとが立つ。
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海運の発達

八戸は寒冷地で米がとれないため、2万石の小藩にしては三戸郡から九戸郡まで続く、広い領地を与えられていた。米の生産性が低いということは、米穀を経済価値の基準とする幕藩体制では決定的に不利だ。「やはり米がとれないことが、八戸藩にとって最大のデメリットといえます。この不利な条件を克服するために、米に代わる産物として、畑では大豆を作り、海で獲った鰯を干鰯や〆粕などに商品化して、これを江戸に船で運んだのです。特に8代藩主・信真が行った1819(文政2)年の藩政改革後は、国産物販売を強力に展開し、大豆や干鰯、〆粕などとともに、九戸郡の山中から産出される鉄、いわゆる南部鉄ですね、これをたくさん移出して、金を稼ぐようになります」

江戸時代の後期となると、江戸では醤油産業が盛んになり、すしやそば、天ぷらが広く庶民に普及し、急速に醤油の需要が伸びた。そこで原料の大豆を東北に求めるようになり、江戸まで八戸の大豆が流通するようになった。また、江戸周辺の田畑にすき込む肥料として、干鰯や〆粕の需要も高まった。鮭や鮑漁が盛んだった八戸でも、鰯漁がその中心となった。鰯を獲った後、鰯をゆでて油を搾り、鰯を干す場所(加工場)の確保をめぐって争いが起きるほど、とにかく干鰯を生産した。南部鉄は鋤や鍬などの農具の製造が盛んな関東地方へ。そのほか、仙台藩で発行した鉄銭の原料として石巻銭座に大量に供給した。こうした米以外の産品が、八戸藩の重要な収入源となったのだ。

「江戸や他の地域に物資を輸送して収入を得ていた八戸藩は、港湾整備と海運機構を整備したのです。八戸湊は、鮫、白銀、湊の三つの地区によって構成されていました。ただ、八戸湊といえば、鮫を指します。というのも、昔から鮫にある蕪島の島陰が風を防ぎ、廻船の入港と停泊場所に最適だったためです。鮫には海運業務を担当する浦奉行所、湊には川口奉行所を設置。また、鮫には産物を保管する藩の浜蔵をつくって、地元商人の三四郎家を廻船問屋に指定しました。あと、八戸には馬淵川と新井田川があったのもよかった。内陸でとれた産物を船で湊まで運ぶことができます。だから、河口には大型船(千石船)に荷物を積むためのはしけ船が接岸する、河岸まで整備されていました。

こうした港湾の整備はもちろん、交易を全て藩が主導したことも特徴的です。日本海側を経由する西廻りの北前船は、廻船問屋と呼ばれる商人が中心となって、各寄港地で積んでいる物資で商売しながら大坂まで運んでいました。これと同様に、藩政改革前は、八戸でも大量に産物を輸送する際には、他藩の船を雇って廻船問屋が商売をした。これを改革後は、手船という藩船を建造し、地元で船頭と水主を雇用。八戸廻船団を組織して東廻り船を就航した。全て“自前”でやることで、運送費を安くしたのです。これによって、1847(弘化4)年には5万両もの蓄財に成功しました。赤字脱出です」

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    青森の名物、ホヤ。11月以外はほとんど出回っているが、7月、8月が特においしいという。新鮮なホヤなら、そのまま刺し身で食べても独特の臭みがなく、おいしいばかりだ。
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    地元で「イサバのカッチャ」と呼ばれる、ほっかむりを頭にかぶったお母さんたちが、魚や野菜を元気よく売る。市場の主役だ。
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    魚菜小売市場は1953(昭和28)年に開設以来、市民の台所だ。物販のほか、市場内で朝ごはんなどを食べられるスペースもある。
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    地元では「ヒラガニ」と呼ばれる、夏場のカニがたくさん売られていた。盆を知らせるというこのカニはゆでて食べるのが一番だそう。
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    水揚げ高日本一を誇る八戸のイカ。市場周辺では、店の近くで開いたイカを天日干ししている。1日干したら次の日には店に並べる。
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江戸近くござ候

元禄年間(1688~1704年)以降、海運を利用した交易が活発になると、八戸で商売をするために外来の商人が進出。中でも江州高島郡大溝(現・滋賀県高島市)出身の商人、大塚屋や近江屋、美濃屋などが八戸で大きく商いをした。さらに江戸で大豆や干鰯を下ろした船には、江戸はもちろん、寄港する銚子、那珂湊、平潟、相馬、石巻から、たばこや茶、本など各地の“珍しいもの”を積んで戻って来るようになった。こうして冒頭のように「江戸近くござ候」と落語家が旅日記に記したような、豊かな消費生活が、ここ八戸で花開いたのである。米がとれない小藩の英知が八戸の今日を築いた。

※『Nile’s NILE』2016年11月号に掲載した記事をWEB用に編集し、掲載しています。

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ラグジュアリーとは何か?

ラグジュアリーとは何か?

それを問い直すことが、今、時代と向き合うことと同義語になってきました。今、地球規模での価値観の変容が進んでいます。
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